青空が広がり暖かい陽気のなか、列を作って課外授業で「種苗畑」見学へ。常磐線を跨ぐと巨大な原町無線塔がズンズンと近づいてくる。海抜201m、大正時代に作った鉄筋コンクリート製の巨大な建造物はこの地のシンボルであった。常日頃「進駐軍がいるからあっちに行くな」と聞いていた。
畑道を歩く頃には周りを圧倒し聳える巨塔に驚きながら「冒険心」も沸いていた。鉄条網に沿って進むと銃を肩にかけた兵士が何人か近づいてきた。「進駐軍だ!」。生まれて初めて見る「外国人」が鉄条網の「向こう側」で笑顔で手を振っている。ポケットから「飴」や「チョコレート」を金網越しに差し出してきた。1人が恐る恐る受け取るとみんなの手が一斉に伸びていった。
初めて喰ったチョコレートの味。引率の先生は、様子を見ながら暫しの間そこに留まっていた。歩きながら飴を舐め舐め外国人や進駐軍の話しで子ども達は沸き返った。涼風が吹く松並木の街道を行く。所どころ松の根っこを掘り返したような跡があり、先生は「戦闘機の油を取った跡だ」と「松根油(しょうこんゆ)」の話をした。思えば楽しい一日だった。暫くして、同じ年頃の子が不発弾で片手が吹き飛ぶという事件が起き町じゅう大騒ぎになった。不発弾は海の近くで拾ったものとわかり、学校回収が行われることになった。当日、薬莢や銃弾をカバンに入れたり、大きなものは抱えたりして登校した子ども達。パニックになったのは先生方だ。「まさか、こんなにゴロゴロと銃弾や砲弾を子ども達が持っていようとは!」。「戦争を知らない子どもたち」は持ってきた銃砲弾を自慢げに床に並べていた。
畑が拡がる大地に「コ」の字型の土塁がポツンポツンと不思議な感じ。高さは5m以上、幅は10m以上もあっただろうか。後々、この地に「陸軍飛行場」があったことを知り、地元の博物館資料を読んで、「本土決戦特攻隊錬成基地」として陸軍特別攻撃隊原町飛行隊を編成し若い飛行兵を訓練し戦地に送ったとある。「東北地方最初の空襲があり」1945年8月9?10日の2度目の空襲で飛行場は壊滅し町は破壊されたとあった。少年時代の断片的な記憶が一つの歴史として繋がった。
年の瀬になると東京に出稼ぎに行っていた飯舘村のおじさん3〜4人が毎年立ち寄ってくる。隙間風が吹き抜ける長屋の家が少しばかり賑わう日だ。東京土産はいつも「黒糖」を塗った「黒パン」。コタツに足を入れ作業着のまま雑魚寝で夜を過ごし、朝一番の「川俣経由福島行」のバスに乗って家族が待つ飯館村へと登っていく。
小学校の教科書に、原町無線塔が関東大震災の第一報を米国に送り世界中に日本の惨状を伝えたということが載った。この地でずっと見続け写生してきた無線塔は子どもたちの誇りでもあった。しかし、一方で残酷な戦争の歴史がこの町や近郊の町村を覆っていたことも知る。父と泊まった飯館村の農家の食事風景は、何故か鮮明な記憶となって残っている。大きな囲炉裏を取り囲み、一段高所の上座に家主が座り、右側に息子、客人、左側に娘達が並び、上り口に奥さんが座り「コ」の字型での各自のお膳による食事だ。家主の後ろには「昭和天皇」の写真が飾られ家族を見下ろしていた。
「コ」の字の奥に見えたのは、生殺与奪の天皇制国家の侵略戦争と民衆支配の実像だった。既に人手に渡ったあの家の家族を知る術はない。(朝田) |